なんだかわけのわからないタイトルですみません。
患者さんが入院したときに、他の入院患者さんを観察していて気づいた話を聞いたのですが、とてもおもしろい視点で、しかも的確な観察でしたのでご紹介します。
患者さんは95歳の女性です。
以前にもちらっと紹介したことがあるのですが、年に数回大型書店に行って本をまとめ買いしてくる方です。
頭は本当に聡明で、英語やドイツ語まで勉強されているのです。
一人暮らしをされているのですが、腰を痛めてしまい、一人暮らしが不安とのことで一時入院することになりました。
いわゆる療養病床と思われる、高齢者ばかりが多く入院している病院に入院されました。
はっきりとは言いませんでしたが、認知症の患者さんだったりが多く、他の人はこんな感じなんだという感じで驚かれていたように思います。
大部屋だったようなのですが、同室に「認知症」と診断されている患者さんがいたようなのです。
しかしその人を毎日観察していて、「あの人は認知症ではないわ」と思ったようなのです。
というのも対応する看護師さんによってぜんぜんその認知症の患者さんの反応が違うということなのです。
特定の看護師さんの時だけしっかり反応し、食事も介助なのですが、その看護師さんが担当のときはしっかり食べるようなのです。
しかし、他のスタッフだとまったく食べないそう。
食べないと決まって点滴をされるとのこと。
そして点滴をしたあとは決まって痰が増え、痰が絡むためにその都度吸引されとても苦しそうだったとのことです。
終末期で食事が低下して時に点滴をするかしないかは大きなテーマですし、よく問題になるところです。
昔はなんでもかんでも「点滴」だったのでしょうが、今は無理に点滴せずに自然に任せる、というケースも増えてきています。
というのも、「食事が取れない=低アルブミン」の状態に対して、ただの脱水予防・改善、水分補充の目的で点滴をすると、体がむくみます。
あるいは肺に水がたまります。
そして痰が増えてしまったりするのです。
肺に水がたまるって相当苦しいですよ。
だから「無理をせず自然に任せる」という選択肢も増えてきています。
やはり経口から水分を摂った方が、必要な分だけ腸から吸収されますし、圧倒的にその方が自然です。
点滴というものは強引に血管から水分を入れるのですから、食べれないからなんでもかんでも点滴という安易な考えはよろしくありません。
もともと体力ある人が食中毒で急激な脱水になっているなどであれば点滴を行う価値は充分ありますが。
上記の認知症患者さんは「食べれないから点滴」という安易な考えで行われているのでしょう。
それで患者さんの痰を増やして苦しめ、さらに痰の吸引で苦しめられます。
医原病の最たるものではないでしょうか。
しかしいまだによくあるパターンでもあります。
他にすることないからとりあえず点滴、という安易な考えなのでしょうか。
ただ上記認知症患者さんはまったく食べれないわけではありません。
特定の看護師さんの時はしっかり口を開けて食べるのです。
当然毎日その看護師さんが24時間対応するというわけにもいかないでしょうが、「なぜその看護師さんだったら食べるのか?」「なぜ他の看護師さんだと頑なに食べないのか?」を看護師同士で話合わないのでしょうか?
アセスメントってやつですか?
アセスメントとは看護師さんの世界ではよく使われる言葉ですが、「情報を収集し、整理・吟味し、判断する過程のこと」「患者さんの抱える問題点や優先順位を判断し、最適な看護ケアの方向性を明確にするプロセス」と説明されたりします。
なぜ人によって患者さんの対応が異なるのか、点滴する前にまずはそこを話合って評価するべきではないのでしょうか。
それによって無駄な点滴も減るでしょうし、痰を増やして患者さんを苦しめることもなくなります。
まるで強引に点滴をして痰を増やし苦しめていることが、「食べないことによる懲罰」に思えてきます。
「ふんっ。ちっとも口開けてくれない。ちっとも食べてくれない。かわいくない!」って感じで点滴をしているようにも思えてきてしまいます。
短期間入院していて観察していた自分の患者さんだって気づけたことなのです。
そこの職場で働いている看護師さんならなおさらのこと、点滴したら決まって痰が増える、ということに当然気づいているでしょう。
本当に患者さんの事を思ってケアをしているのか疑問に思います。
きっと点滴の量もいい加減なのでしょう。
医者も一律で決まったオーダーしかしていないのだと思います。
毎回毎回点滴してそんなに吸引しなければならないほど痰が増えるというのなら、点滴の量が多すぎるのではないでしょうか。
脱水にならない程度に点滴量を調整するべきではないでしょうか。
ちなみに終末期の場合ですが、自分の場合はやはり基本的に食べれなくなったらそれが自然な流れですので、なるべく点滴はお勧めしていません。
しかしご家族としては「何もしないのも忍びない」という気持ちがあると思いますので、それであれば痰が増えない程度に、体がむくまない程度に少量の点滴をする場合もあります。
おもに訪問看護師さんに協力してもらってのことですが。
家族としてはたとえ老衰であろうと、「最期まで何かしてあげたい」「形として何かしてあげたい」と思うものです。
亡くなったあとに「もっとこうしてあげれば良かった、ああしてあげれば良かった」と後悔するものです。
ですからそのような後悔をなるべくしないで済むように、最低限の点滴をおこなうことを提案することはあります(ただし連日ではなく1日おきなどのことが多いです)。
お迎えを迎えるにあたってどんと構えられている、あるいは覚悟ができているご家族は点滴をしない場合が多いですが、迷っておられる方には少量の点滴を勧めることが多いです。
上記の病院、看護師がアセスメントをしっかりしているのか疑問ですし、なんだかなぁと思ってしまいます。
ちなみにその病院の看護師さんのご家族に訪問診療していたことがあります。
施設に入居されていた方ですが。
その患者さん(その病院の看護師さんのお母さん)、コロナワクチンはフルで行っていました。
しかしワクチンの害が世間で目立ってくるにつれて、その施設では追加接種をしない選択をする方が増えていたのですね。
でもその患者さんは娘さん(その病院の看護師さん)の要望によりワクチンを打ち続けていました。
そしてインフルエンザの接種希望もありました。しかも強い希望です。
打たない選択肢なんてあり得ないという勢いです。
コロナワクチン接種者にインフルワクチンを打つと脳梗塞が起きる可能性が高まる可能性があるという知見があったので、自分は「コロナワクチン接種した人にはインフルワクチンは打ちません」という方針にしていたのです(当時は希望者には打っていました。でもなるべく打ちたくないので方針を明言しました)。
重ねて打つことで何が起きるか十分な知見もないし、責任持てないから打つことはできないとしたのです。
それでほとんどの患者さんは納得してインフルワクチンは打たなかったのです。
しかし娘さん(看護師さん)はインフルワクチンは絶対に打ってもらわなきゃ困ると、頭の固い考え方のようで、結局担当医変更(他のクリニックに変更)となりました。
その患者さん、ワクチン臭はかなり強めでしたし自分はかなりシェディングを受けていましたから、正直担当が外れて良かったのですが、ワクチン漬けにされる患者さんがかわいそうだと思いました。
冒頭の話も含め、結局そういう病院なんだな、という感じです。
しかしうちの患者さんの観察眼もすごいなと思いました。
というか、そのうちの患者さん、実は元看護師さんです。
95歳ですから当然現役だったのはすんごく昔です。
当時は終末期の点滴問題があったのかわかりませんが、さすが見るところが違うな、と思いました。
「あの人は認知症ではない」という評価も、妙に信憑性があります。
でも周囲は「認知症」として扱っているのです。
それもとてもひどいことをしていますよね。
たとえ認知症でも、認知症じゃないとして接するべきだと思うのです。
認知症だからってすべてがすべてわからないわけではありません。
それなのに赤ちゃん言葉使って接したり、どうなんだろうと思うときがあります。
あるいは妙に馴れ馴れしかったり、ため口だったりします。相手(患者さん)が自分よりも年上だというのに。
年齢は関係ないかもしれませんが、最低限の人としての礼儀ってものがあると思うのです。
認知症だって人としての尊厳はあります。
病名に対してではなく、「人」として接するべきです。
そういうバカにしたような対応するからますますひどくなるんじゃないですかね。
例え重度認知症でコミュニケーションが取れないような方でも、自分は必ず聴診など診察する前は「診察しますね」と声がけしますし、帰るときも「○○さん、また来ますね」って声がけします。
わからないだろうから、理解できないだろうからとの理由で、無言で聴診するということはしません。家族だけに挨拶して帰るようなことはしません。
意味のある言葉が上手く発せないだけで、実は聞いていることは理解できている部分もあるかもしれません。
自分の勝手な判断、思い込みはよくありません。
冒頭の患者さん、特定の看護師さんからはしっかりご飯を食べるとのことですが、そういうささいな声かけとかが他の看護師さんとは異なるのかもしれません。
あるいは、患者さんをちゃんと「人」として接しているからかもしれません。
気持ちは伝播しますし。
自分の気持ちの持ちようがささいな行動の違いとなって、相手に伝わってしまうこともあります。
その認知症とされる患者さんは少なくともその辺の機微を敏感に察知できる方なのでしょう。
だから人によって態度が変わるのです。
にしても95歳のうちの患者さんからはいつも刺激をもらっています。
今回の話もとても興味深かったですし。
95歳にしてドイツ語を学び始めるという姿もすごすぎます。
かっこよすぎます。
毎日簡単な日記のようなメモを書いているのですが、「曜日」を英語で書いていたり、ドイツ語で書いていたりするんですよ。
この方にとっては「まだまだ人生半ば」という感じなのかもしれません。
人生何年あっても足りないくらいです。
自分もこんなふうに年取りたいなっていつも思います。
毎回診察に伺うと、こちらが良い刺激をもらって帰ってきます。
ちなみにこの方、診察時の血圧はいつも190台が多く、200を超えてしまうこともあります。
自宅で自分で測ると、大体150~170台くらいです。
それでもこんなにお元気です。
腰痛めて入院はしましたが…。
高血圧学会が定めた高血圧の基準って本当に正しいのでしょうか。
ああいうのって本当、「数字だけを見て人を診ず」の典型例でしょう。
いやいや、「製薬会社だけを見て人を診ず」が正しいかもしれません。
そしてガイドラインに固執して薬漬けにし、頻繁に通院させて治療をしている医者は「金だけを見て人を診ず」です。ワクチンで商売している医者もね。
今回のことで、『医療というものは「人」を診る』という当たり前のことですが、原点について改めて思い出させてくれることとなりました。
95歳の担当患者さんの入院での観察を聞かせてもらって、こんなにもいろいろと深く考えさせられました。
やっぱり良い刺激をくれる存在です。
