最期

自分はこれまで看取りの実体験の話などブログに何度か書いてきました。

現在ではようやく「余計なことをしない方が無駄に苦しまずに最期を迎えられる」という知識が広まってきたように思えますが、でも十分ではないでしょう。
まぁ「十分」といっても何をもって「十分」というのかわかりませんけど…。

残される家族としては「少しでも生きながらえて欲しい」って思うのは当然だと思います。
ましてや「病気」が原因で命がつきそうな段階にある場合はなおさらです。
回復する奇跡を最後の最後まで諦めたくないし諦められないものです。

ただ病気にしろ自然な老化にしろ、かなり高齢の段階になって「ご飯が食べられない」「便秘が続く」など起きた場合、過剰に反応してしまうケースは本当に多くあります。
食べられないのは体が必要としていないから食べないケースも多くあると思われ、それなのに少しでも口に強引に入れようとしたりしてしまうのですね。
本人に取ったら拷問でしょう。

便秘も人それぞれで、もちろん毎日あるのが理想かもしれませんが数日に1回でも問題ない人は多いですし、「毎日あるのが理想」という世間の健康常識に振り回されすぎている人も多い感じがします。

食べ物もそうですが、何食べたらダメとか何食べたらいいとか、そんなの人それぞれですよ。
本人が好きなものを強引に制限し、それがストレスとなって血糖値が上がってしまうことだってあり得ます。
食べ物「単体」をみるのではなく、精神面への影響を含め「トータル」で考えないといけません。

AとBの関係のような、短絡的思考で物事を考える人があまりにも多いです。
「添加物」は「体に悪い」とか。
人間ってそんな単純な生物ではないですよ。

シャウエッセンが好きで好きで仕方ない人は、強引に制限することで逆にストレスから病気になってしまうかもしれません
シャウエッセンを食べることによる幸福感は時には添加物の問題すら乗り越えてしまうこともあるかもしれません。
(決して日本ハムの回し者ではありませんので…)
といっても、センサーがちゃんと働いている人は、シャウエッセンは最初は美味しいと思っても、食べ続けていると「さすがに体に悪そう」って自然と感じるものですけどね。
でもそれすらも世間の常識が刷り込まれている影響かもしれませんけど。
食べた後の自分の体のささいな変化を注意深く観察する能力も必要です。

巷では超加工食品はガンのリスクを高めるということが常識となりつつありますが、90歳を超えてシャウッセン好きな人にも制限しますかね?
自分だったら食べさせてあげたいと思ってしまいます。
そんなに食いてぇならいいっしょ、みたいな感じで。
パリッ、パリッと美味しそうに食べる姿、頼もしすぎます。
もちろんより健康的なソーセージで満足できるのならそちらを勧めますが。

「最期」をテーマに書こうと思ったのに食べ物の話になってしまいました。
また脱線かよ、って感じですが、そうでもありません。

どんなふうに年を取っていくか、どんなふうに最期を迎えるか、ということを考えるときに食事のことも関わってくることでもありますから。

例え数年寿命が縮まっても美味しいものを食べて好きなことをして人生を満喫して終わらせたいか、美味しいもの・好きなものを我慢して摂生をして長生きしたいか。

皆さんもお気づきだと思いますけど、上記がみんな当てはまるわけでもありません。

体に悪そうなもの食べても長生きする人はいるし、摂生していたのに早くに病気になって亡くなってしまう人もいます。

摂生していれば絶対に病気にならない、絶対に長生きできるという確証があるんだったら良いですけど、100%そうじゃないですからね。
ただただ確率として数字が出ているだけです。
摂生していれば早くに病気にならなくなる可能性が高いよ、ってだけです。一応は。

土橋先生の本にも紹介されていましたけど、血圧管理や食生活など生活を厳しくコントロールし介入していたグループの方が短命だったというフィンランドの研究結果があります。

血圧は下げた方がいい、とか、シャウエッセンがダメ、とか、それはA=Bの短絡的な考えであって、それらを寄せ集めて健康管理に努めたってあまり意味がないのですね(フィンランドの研究にシャウエッセンは出てきませんので)。
最近は「飲酒に適量はない」という知見がでましたけど、飲酒によって心の平安が保てる人もいるわけです。
それによって精神科に無駄にかからず、抗うつ薬の犠牲になる人も減っているかもしれません。
(一方でアルコール依存につながるリスクもありますけど…)
あるいはコミュニケーションの手段として、幸福感を味わえる方もいるでしょう。
アルコールによる悲惨な事故に関しては、それにつながらないようにする何らかの規制は必要だと思っています。
広告規制など。効果あるかわかりませんが…。あるいはアルコールによる事件・事故のさらなる厳罰化など。

健康常識としては現段階ではお酒も体に悪いものであることは確実です。
でも好きな人は自分でコントロールできる範囲で楽しんでいいとは思っています。
タバコも同様です。

病気予防のため、健康維持のため、長生きするため、いろんな理由で摂生している人が多いかと思いますが、不摂生しても健康で長生きしている人を多く見ていると、摂生するのが正直バカらしくも思ってきてしまいます。
結局は考え方・価値観の違いでしょうけどね。

そして冒頭の食事とか便のこととかとつながりますけど、高齢者医療において、こうでなければならないとか、そういう堅苦しい考え方でがんじがらめにして、あてはめていくのはどうかと思うのです
たいてい思うとおりにならず予想もしなかったことが起こるのが常です。
そしてそれはただただ家族や医療者の価値観の押しつけになっていないか、ということです。
本当に本人が望んでいることなのでしょうか?
(本人は食欲がないのに、食事摂取量が少ないからといって無理矢理食べさせるのが典型例)
生物として自然な流れであるにも関わらず、それに強引に抗うことにより、逆に本人を苦しめていることになっていないでしょうか?
なんなら食事摂取量にこだわるあまり、強引に食べさせることによって誤嚥性肺炎を引き起こし、逆に死期を早める結果にもなりかねません。
食べない理由は、ちゃんとあるはずなのです。

もっとドンと構えていてもいいのに、と思うことは常々あります。

このドンと構えていられるかそうでないかは、「死生観」にもよるでしょうね。
死後の世界がある、魂や意識体の存在を信じている人にとっては、(肉体の)死はそれほど怖くありません。
自分が死ぬのも怖くなくなりますし、肉親の死に対する悲しみの大きさや、どれだけ引きずるかにも変化が出てくるでしょう。
それによって、「ドンと構える」ことができるようになります。

だから「死」について皆さん真剣に考えてもらいたいと思うのですよね。

と書いてきて、死後の世界がある前提で書いていますけど、死後の世界はないと信じている人にとっては、やはりドンと構えることができないのかもしれませんね。
死後の世界がある・ないの考え方も人それぞれですから、「ある」という考えを押しつける気は毛頭ありません。
でも自分は「ある」と思っています。
その方がはっきり言って人生が豊かになりますしね。
しかもドンと構えていられるし、いいことしかないと思うのですけどね。

「ない」という考えの人は肉親が亡くなっても葬式を上げる必要もないし、お墓や仏壇の前で手を合わせる必要もないですよね。
でも実際はやっている人もいるという矛盾。
はっきりしねぇな、と端から見て思うのですが、こういうのを「自分軸がない」とでもいうのでしょうね。
(一応お葬式には、「死の事実を親族・友人・地域社会に正式に知らせる役割」「遺族が故人と最後の別れをし、悲嘆を共有しながら心の区切りをつける場」という意味合いもありますから一概には言えませんけど)
見えない世界を否定しておきながらお守り持っていたり、初詣行ったり。
意味がわかりません。

見えない世界があるのかないのか証明はできませんけど、あると考えた方が世界が広がると思うのですよね心も豊かになります。
神も仏も死後の世界もない、と考えるのは別に悪いことではないですよ。
価値観や考え方の違いですからですから自由です。
でも正直「狭い世界で生きているな」って思ってしまいます。

科学は万能ではないのです。
ということは見えない世界もあるんじゃないのか、と捉える謙虚な姿勢も大事だと思います。

長ったらしくまとまりのない文章を書いてきてしまいましたけど、はじまりは一冊の本を紹介したかっただけなのです。
相当遠回りしました。
長野県のとある大学の教授先生から紹介していただきました。

人間の死に方 医者だった父の、多くを望まない最期

高齢の親を持つ人には必読の書、といっても良いくらいです。
というか、高齢の親を持つ人全員に読んで欲しい
それくらいの気持ちです。

もちろんただ自分の価値観と合ったってことだけで、この本を読んでもぜんぜん共感できないとか参考にならないと思う方もいるかもしれません。
でも、一個くらいは参考になるところはあるんじゃないでしょうか。

在宅医療に関わる人、介護に関わる人には本当参考になることが多く描かれています。
介護者の苦悩・本音も赤裸々に語られています。

しかも所々毒舌的なユーモアがあったり、医療者としての本音が書かれていたりします。
そしてとても読みやすい。

そもそもが、著者の看取ったお父さんが「医療嫌いの医者」というのが最高でした。
「医療の現実(真実)を知っている親子の介護・看取りの物語」という表現がぴったりかもしれません。

これを読むと、余計なことをせず自然に任せるのがやっぱり一番、と気づかされます。

本の冒頭の方でお父さんのことを
『医学的に正しいと言われることより、自分の身体の感覚の方を信じていた』
と表現しておりました。
さらには
『現代人の多くは、安心を求めすぎて不安を増やし、長生きを求めて命を縮め、先のことを考えすぎて、無駄な心配で〝今〟を浪費しているように見えていたのだろう』
と表現していました。

もう共感しまくりです。
そして、さすがプロの作家は表現が違うな、と思いました。

自分はまだいろいろ責任?や、やることがるのでまだ死ねないと思っていますけど、一応死ぬことは怖くありません。
死ぬのが怖くないと思っている自分は、ゆるくテキトーに生きるのが一番だと思っています。
そしてポテトの成分が半分も入っていない、よくわからない成分だらけのプリングルズを食べながらブログを書いています。

とかいっていざそのときになったら、生に固執して延命治療望んでいたりして。
そしたら絶対に人に言えないな。
そのときは速攻このブログを消去します。